礼拝の民を養い育てる


クリスチャンの会衆は、個々固有の存在でありながら一つのたましいを持つ。教会の力は、一人一人の心から生じ、それぞれ異なったすべての力が調和してさらにもう一つの高い力を生み出すのである。

1.気風を形作る牧師の任務
会衆が二人、三人と集まり、一致して祈る時には、神が応答することが約束されている。だから教会が、一人ではなく、全体となって全体のためにすべきことは多い。牧師が鍛えるべきことは、まさにこのことなのである。牧師は説教を通して公に、皆が一致して祈るべきことを語り、さらに牧会を通して、一人一人が集まり合って祈り合うように励まし、訓練し、そしてそれを教会の気質となるに至るまで身を注ぐのである。牧師は、単に指示を与えるものではなく、人格を形作る者、つまり個々のクリスチャンにその生き方の姿勢なり態度なりを身に着けさせていく役割を持つ。単に知性ではなく、心を形作るのである。

若い牧師はいつも知力を重視し過ぎる傾向にある。しかし、牧会生活の初期において思想をもてあそぶことに慣れてはいけない。むしろ、一人一人のたましいの性質を見抜き、それを神の似姿に近づけていくことに、どう熟練するかに関心を抱くべきである。「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」というが、知力や理解力の開発よりも、より深い内面の神にある安定した情緒や敬虔の開発が求められている。事実、知性に訴えても、個々のクリスチャンは決して成長することはない。クリスチャンの成熟の実は、あくまでも自主的に、たましいの奥底から出て来るものだからである。

だから、牧師は、人が活動することよりも、静まり、神の前に祈ることを激励していく必要がある。というのも、教会で行動を起こし奉仕をしてさえすれば、人は、自分の信仰生活はうまく言っていると思い込んでしまうものだからだ。そして情緒的な内面を深く掘り下げていくことには何の注意も払われない。しかし、何をするかではなく、力ある行動を生み出す性質をつくることへ注力していくことだ。そうでなければ教会はいつまでも成長しない。絶えず努力せよ、奮起せよと励まされる人々は、やがて疲れ果てていく。そして教会から命の泉が涸れはて、それは荒野のごとくになりうる。教会には、ペンテコステの恵みを味わうに至らせた、二階の広間が必要なのである。

また、牧師は、何かを解説するのではなく、感謝、感激、感動を生み出す人間の心に集中しなくてはいけない。難解な教理上の問題の説明や、神学の哲学的な解説を面白く思う少数の人々に向かって語るのではなく、ただ神のことばに生きようと素朴に願う人々に向かって語るべきである。神のことばによっていかに感動し、希望や愛に溢れて生活することができるかを知ることができるように語るのである。

教会は、会社であっても学校であってもいけない。ただ色々な業務が論議され遂行される事務所であっても、色々な教理や知識が教えられる学校であってもいけない。教会は神の宮である。そこは、神を仰ぎ、たましいが自然に神に向かう雰囲気のあるところである。教会には、その町に他の組織が与えられない何者かを与えるところがなければならない。それこそ、「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」(創世記28:17)と感動を与える場でなければならないのである。会衆の内に、神を礼拝する気風を形作り、創造者の御前に恐れの心をもって立つような雰囲気を作り出す、これが牧師の主要な任務である。

2.神に向かう心を育てる
真に神を喜びとするクリスチャンならば、普通に礼拝で行われるべきことが行われていれば、そこに満たしや啓発を得て、家路につくことができる。実際、一週間の勤労に疲れ果ててくたくたになっている聴衆に向かって、最新の神学の論争を語ること、理詰めで聖書を解説することに、何の意義があるだろうか。会衆は、教会に来ることによって心の思い煩いから解放され、きよめられ、高められることを喜びとする。問題は、様々な欲求を持った会衆に向かい合わねばならないことである。だから説教は、神の恵みが人のたましいに達する多くの道の一つに過ぎないことを心得なければならない。説教が全てではない。そして牧会は一人一人の魂の成長の度合いを見ながら、なされなければならない。どんなに牧師が献身的で有能であっても、牧会を受ける者の心が、神のことばを受け取る備えがなければ、牧会はなされないからである。常に言うように、セキュラーないわゆるカウンセリングと牧会は異なるものである。牧会は、牧師とそれを受ける信徒双方が、神に解決を求める心が一致していなければなしえない。

また人々は一週間に様々なことを体験して、主の日を迎えるが、何の準備もなく、霊的なメッセージを聞こうとする。しかもそこで、混乱と悩みが解決すること、苦々しい思いと不満が解消し、罪のきよめの確信を得ようとする。さらに健康な信仰の持ち主であるならば、そこで敬虔が深められることを願うだろう。また、牧師と協働の心を持つ信仰者であるならば、そこで霊的な一致を得、神の目的に沿って皆が動かされることを求めるだろう。牧師はそれを説教のみでするのではない。説教をもってすべてそれができるわけではない。説教に過信し過ぎてはならない。説教が語るところを個別に浸透させる牧会を通して、また讃美と祈り、そして信仰告白という一連の流れを含む礼拝という偉大な神の教育装置を通してそれをするのである。