愛の共同体を完成する使命


1.教会が教会であること

伝統的に教会は、みことばが解き明かされ、聖礼典が守られる場であると教えられてきた。しかし、イエスが強調されたのは、愛の責任と実行であり、教会が愛に満ちた共同体として完成されることである。
だから牧会者の第一の責務は、教会に温かい交わりを確立することであり、教会員にもそれをよく理解し協力してもらう必要がある。しかし現実には、この働きを理解し、そこに価値を見出している者は少ない。そして具体的な「いまここ」にいる兄弟姉妹を愛することよりも、人類一般への愛を夢想し訴える誤りを犯していることが多い。しかし、聖書が愛することを勧めているのは、不特定多数の一般の人々ではなく、目の前にいる具体的なキリストにある兄弟姉妹を愛することである。

 

2.教会と聴衆の違い

兄弟姉妹を愛するところに、神を礼拝する真の力も生まれ(1ヨハネ4:20)、孤独な都市の人々を弾き付け、回心に至らせる大きな力となる。人は単なるよい説教では救われない。というのも、良い説教は一時的に聴衆を引き付けるが、その集まりは互いに何の関係もない人々の群れで終わってしまうものだろう。彼らは演劇が終わるとたちまち散っていく人々である。しかし、教会は家族であり、交わりであり、そこにいのちがある。牧会者が説教をするのは、聴衆を引き寄せるためではなく、教会を建てあげるためである。数多くの信徒が教会を出て行って後、教会との縁が全く途絶えてしまうのは、彼らが聴衆の群れに過ぎなかったからである。

 

3.牧師と信徒の決意

そこで教会には力強く神の言葉を語る説教と同時に、暖かい、優しい手が必要である。キリストとの出会いにより回心に至らせられたパウロに、アナニヤが温かい手を差し伸べ迎えたように(使徒9:17)。雄弁は力であるが、愛情の力はさらに強い。そこで牧師は、教会において兄弟愛を育てることに熱意をもって、献身しなくてはならない。だが、これは最も困難で妨げの多い仕事である。事実神の子イエスはそのために十字架につけられたのであり、同じ道を歩むことに他ならない。だから困難なこの仕事によって、自分が無力であることを感じ、挫折する牧会者は、個別の魂を愛することから、漠然とした人類愛に夢想するようになる。確かに教会には難しい罪人がいるものである。互いに愛し合うように教え訓練することは、ほとんど不可能に近い仕事に思えることがある。しかし、和解は礼拝に先立たなければならない(マタイ5:23,24)。様々な霊的段階にある教会員を導いてクリスチャンとして共に生活をさせ、共に活動させることは、ただ神の業が現れずしてはできないことであると心得るに限る。そして牧会者は、このために十字架を負う覚悟を決めなければならない。そして牧会者と共に、十字架を負う覚悟を決めた役員、信徒が出てくる教会は確実に成長する。というのも、愛のない教会の群れを飛び越えて、有効に愛を説くことは誰にもできないからである。まず目の前の多くのクリスチャンの心を一つにすること、このために、牧師も信徒も力を合わせていく、これが最も偉大な仕事なのである。

 

4.個人に向かい合うこと

そこで牧会において本質的なことは、個々の人間に目を注ぐことである。いわゆる聖日に顔を合わせる一人一人に向かうことである。社会に向かってでもなく、クリスチャン全般に向かってでもなく、具体的な個々の人に向かい語りかけることである。個人を最もよく知り、最も深く愛する者は、最も徹底した有効な説教をする。「あなたはどこにいるのか」「あなたの兄弟はどこにいるのか」これは牧師が何よりも最初に尋ねなければならない質問である。教会に集まって来る一人一人の魂の霊的成長に十分責任を負うことが、牧会者および牧会協力者の務めである。

興味深いことに、50年代に書かれたと言われるマルコの福音書は、いわゆるイエスの簡潔な言行録となっており、その80%は受難物語であると言われる。その後、70年代に書かれたマタイとルカの福音書は、マルコの福音書を下敷きにしており、それぞれ独特の資料が加えられて書かれたとされる。それらは共観福音書と呼ばれるように、基本的に同じ視点を持っており、相互補足的な特徴がある。しかしその後、80年代に書かれたヨハネの福音書には独特の視点がある。おそらく使徒ヨハネは、すでに、マルコの福音書も、マタイ、ルカの福音書も読んでいたことであろう。そこに敢えて、老齢な使徒ヨハネは約50年前の記憶を遡り、最後の遺言として、イエスについての最も大事な記憶を書き残したのは、共観福音書に描かれていないイエスを描くためであったと言えるだろう。そして共観福音書とヨハネの福音書の中におけるイエス像の決定的な違いは、イエスが向き合っている対象にある。共観福音書では、イエスはいつも群衆に向かって話をしている。しかし、ヨハネの福音書では、ニコデモ、サマリヤの女、姦淫の現場で捕まえられた女性、マルタとマリヤ、そしてペテロと、個人に向かい合って語られるイエスの姿が描かれている。ヨハネは、後に徹底して愛を説く手紙を書いたが、その愛は、まさにこの個人と向かい合うイエスの姿を念頭にした個人的な関りをする愛に他ならない。

牧会者および牧会協力者は個人を求め、個人を見出さなければならない。一人一人の魂を磨くように育てることがその務めである。霊的生活には初めがあり、それに続く諸段階があり、危険があり、誘惑があり、困難があり、病気があり、失敗があり、成長がある。これらの諸事項に霊的によく通じていて、一人一人に寄り添い導くことである。建設的に建てあげるために何をすべきか、そして、一人一人に価値あるものに興味を持つように訓練するのである。信徒一人一人に同一の考え、同一の働きを期待するのではなく、一人一人多様な気質と性格、発達の色々な段階、様々な教養を身に着けた者であることを理解し、それぞれ固有な者とし、その持ち味を生かしながら、神の召しに応答するように導くのである。牧会者および牧会協力者の最上の職務は、牧会を通して人間を作ることである。説教をつくることではなく、人間をつくることである。

 

5.個から宣教が始まる

教会の任務は社会を改造することにある。教会の着眼点は常に社会的でなければならない。しかしその方法は個人から始まる。教会も社会も、一人一人のたましいによって造られるからである。社会を変革するためには、たましいを改革しなければならない。しかも一つ一つ改革していかなければならない。牧会者および牧会協力者の最上の仕事は、この個々のたましいの変革である。そのために、身をささげて熱中することが献身である。

事実、異邦人伝道の門戸を開いたのは、まずコルネリオの回心によるものであった。マケドニアの宣教が進んだのも、ピリピにおけるルデヤ、看守、女奴隷の回心によるものであった。個人を個別に扱い、養い育てることが神の方法である。牧会者としての成功を、教会の大小をもってはかってはいけない。それは教会の目的ではありえない。成功の尺度は信者の個性のうちに発達させた人格の高さ広さによる。個々の信徒のうちに兄弟愛、キリストの品性を養い育てたかによる。つまり聴衆を作ってはならない。教会を建てあげることが、牧会者の使命なのである。逆に聴衆を集められないからといって落胆する必要はない。牧師は興行師ではない。信徒一人一人のたましいに向かい合い、これをみことばによって育てることに意を払い、労を惜しまぬ日々があるならば、農夫のように、その実りを期待してよいのであり、それ自体に誇らしい仕事をしているのであると考えてよいのである。